(書評)『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

すごく久しぶりにこちらのブログを更新。

このご時世、当然のごとく私もものすごい変化の渦中にあり、最近、所々で大人になったな、と感じる一方で、それが言語化できてないということはまだまだということですね。アウトプットになっていない以上、全ては言い訳ですが、どうせ大したことないのに、何をカッコつけているのでしょうね。

他にやるべきことがいっぱいあるように思えてしまって、モーメントを大切にできない、そんな状況に少しの答えをくれたような1冊について、考えたことをまとめておきます。

8月の終わり、夕方の砂浜に寝転びながら考えている。

(あ、先月に田舎に引っ越して、今日の午後は久々にのんびりと、自転車で家から3分のビーチにいた)

『暇と退屈の倫理学』。

ちなみに、著者の國分さんは、どうやら広い意味で私の学科の先輩に当たるようだ。

分厚い本であり、内容全てを理解、納得できたわけではないが、少なくとも退屈とどう向き合うかについての結論部分は十分に納得のいくもので、メモしておく。

結論は3つある。

1つ目は、「理解する過程こそ重要であり、こうしなければと思い煩う必要はない」ということだ。

この部分は哲学を語るこの本らしいが、やや一般的すぎるのでスキップする。

ちなみに、公式だけ覚えて当てはめても1点もくれない東大入試を思い出した。

2つ目は、「贅沢を取り戻す」ということ。

まず、筆者は、浪費とは過剰にモノを受け取ること、消費とは観念を追い求めること、としている。

モノを受け取るならば、限界があり、それを余剰に受け取る浪費は贅沢で、それを豊かさの条件であるとしている。一方、消費は観念を対象にするので、終わりがなく、満足いかないために、退屈を引き起こすとする。だから、贅沢をしようよ、と。

かなりユニークな定義と解釈であり、突っ込んで聞いてみたい部分がいくつもあるが、いったんこれを受け入れて考えてみる。

個人的には、倹約志向の世の中で、もっと贅沢をして良いんだよ、それが豊かさになるんだよ、というのが非常に気に入っている。

ケチケチすると、本来手に入れられるべき豊かさを逃す。

私は、食を専門にしているので、以後食の例を挙げるが、こと食においてもこれは当てはまる。例えば、スーパーに行って、工業的な粉チーズパル○ザンと、きちんとした製法で作られたIGPパルミジャーノチーズがある。100gあたりせいぜい500円の差だが、それで出来る料理は全く別物になる。料理においてパルミジャーノが使いこなせると、一生分の食の豊かさが違うのに、本当はそっちを使いたいと思いながら粉チーズを買う人のどれだけ多いことか。誠に残念だ。

食費1ヶ月2万円で〇〇というのがちやほやされる世の中にあって、無駄な贅沢ではない、本来もっと人生を楽しくする出費まで抑えようとする風潮の中で、「贅沢をしようよ、その方が人生豊かだから」という筆者の論は、首を大きく縦に振って読んでいたし、自分自身が背中を押された。日本人は、お金はあるのに、シャネルを買ってパルミジャーノを買わないのが、理解できなかった。観念を消費するのではなく、モノを浪費すべきというのは納得だ。

いけない、パスタの話になると熱くなって話が序盤で膨らんできた上に、さらに話を逸らすような論点を持ち出して恐縮だが、ちなみに、消費、浪費という2項に、「投資」を加えるとどうなるのか、筆者と議論してみたい。

私の感覚は以下。

消費;リソースを1回きりのものに使うこと
浪費;過剰な消費
投資;リソースを長期的目線でリターンを想定して使うこと

こうすると、議論は変わるのではないだろうか。

機会があったら、Zoomディスカッションでもしてみたい。

第二の結論の続きに戻る。

贅沢をしていこう、というところだが、注意すべきポイントとして「楽しむためには訓練が必要」とある。

私はこれは2つに分けられると思う。

1つは、楽しむべきものを楽しめるためのスキル。

美味しいものを味わうには、美味しいと感じられる舌が必要、ということだ。

ただ、古典文学を楽しむにはギリシャ語が必要で、そうなると、これが可能な層は限られてくるが、食のように身体に根ざしたものだと、より広い人にとって訓練が可能になる、という。アグリーだ。

カンヴァスに描かれた18世紀の抽象画を理解するよりも、パルメザンとパルミジャーノの違いがわかる方が訓練の余地がある。

もう1つは、楽しむべきものを楽しむためのマインド。

同じパーティーに出席していたも、ハイデガーは「慣例通りの食事」と表現していたが、私だったら、アペリティフは〇〇で、その飲み物は〇〇、プリモの〇〇はこんな感じでセコンドはこんなところが新しかった!と思っていたかもしれない。

要は、こちらは訓練というよりも、よりマインドに近い感受性の問題のような気がしてくる。

第三の結論は、筆者は<動物になる>と言っているが、要は「パッションを見つけること」と解釈した。

これには、思考することは不可欠という。

第二の結論とつながるが、楽しいことを楽しいと感じるのは何故か、を突き詰めていくことで、自分自身のパッションを発見していくのだ。これは非常に納得感がある。

ここで1つ面白いことに気づいた。

自分が夢中になれるものを<待ち構える>ことが出来るのは、パッションを知っているから。

これは普段からアンテナを貼って、自分のパッションを知るための思考をすることに加え、そして、”やってみること”、つまり、経験の数がものをいうと思う。

かくいう私も退屈が嫌いで、以前は今にまして、隙間があればスケジュールを入れたがるタイプで、でもそうして色んなところに行って色んな人と出会ったことで磨かれたり気づいたりした自分のパッションがある。

すると、足を動かし頭を使い、としていると、退屈から離れていく。

つまり、退屈を防ぐことの出来る可能性を持つパッションは、その獲得過程において退屈を防いでいるのである。

面白いでしょう。

まとめると、本書で私が見つけたかった「人間にとって不幸な退屈に、どうやって対処したら良いか」ということに対する3つのヒントは、

①過程を大事にすること

②贅沢をすること、それを楽しむためのスキルとマインドを訓練で獲得すること

③パッションを見つけること

こうして眺めると、なるほど、である。

最後に、私の考えを自分自身の戒めとしてメモしておく。

「暇という余裕を楽しめるようになることこそが、人生を豊かにする」

暇があると不安になってしまう。何となくわかる。

学生の時は2週間くらい東南アジアの半径1キロくらいの小島にこもって、やることもなく日々を過ごす、というのを何度もいろんな場所で行っていたが、あの時のような時間の使い方は社会人になって、社会人になったら出来ない、切り替えねばならないという内外の洗脳により、忘れられていた。

ダラダラしてると、ほかにやることがあるのではないか、もっと有意義な過ごし方があるのではないかと思ってしまう。なんと小物になってしまったのだろう。

そうではなくて、いま決断したことを楽しむこと、これこそが豊かな生き方だ。そうでないと退屈の奴隷になってしまう。

言い換えると、余裕があるからといって、くよくよベターオプションを考えずに、暇=余裕を自分なりに楽しめたらOKだよ!ということ。

最後に印象に残ったあとがきを引用する。

”この本で取り上げた問題は何よりも自分自身が抱いていた悩みだった。(略)しかし、それを考察してみることはできなかった。
斜に構えて世間をバカにしていたし、この悩みをやり過ごそうとしたこともあった。誰かのせいにしたこともあった。不満のはけ口を求めて周囲にやたらくってかかったこともあった。
だが、ある時にこの悩みを考察の対象にすることができるようになった。どうしてそういうことが出来るようになったのか、自分でもよく分からなかったが、今考えると、ある程度勉強したからだと思う。哲学とか思想といった分野を少しだが勉強して、自分の悩みとどう向き合って行けばよいかがわかってきたのである。勉強とはなんと素晴らしいものであろうか。」

ビジネスに疲れたら学問の世界に浸りたい。

どっちもやると幅が広がって「退屈」しないと考えます。

2020年8月29日

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